WEBギャラリー|公募第52回近代日本美術協会展 作品講評

公募第52回近代日本美術協会展 総評および作品講評

■講評
 設樂昌弘(Shitara Masahiro)―美術評論家―

第52回近代日本美術協会展 総評

 団体展はオーケストラのようだと感じることがある。そこには自己と他者との共生があり、それぞれによる合奏の中に、思わぬ化学反応と調和があるからだ。そうしたなか、この会の従来の思考に更なる深度を与え、多種多様な視点を示唆したのは渡邉前理事長の方針であった。先生はこの閉塞感のある芸術界や世界を切り開くのは、時流を見据えた詩魂による創造だけだと、言いたかったのではないだろうか。勿論そこには自他共に、多角的視点の生命の本質観取が働いていることは言うまでもない。また多様性ある表現が増せば増すほど会の奏でるハーモニーは複雑な味わいが出るのである。当会は本当に惜しい指導者を失ってしまった。しかし進化を体験した今、高梨敬子新理事長のもと更なる高みを目指して、なお一層の躍進を期待したいと思う。

 さて〈1室〉においては、高梨のこぞことし(去年今年)を表現するかのような継続の表出が目に止まる。代表の作風が具象から抽象になっても、継承する詩情の精神は同じである。高梨は詩魂の源流を見詰めているのだ。他、最高賞を射止めた樋口奈穂の寓意表現、丸山今朝三は明快なセンチメント(自由闊達な精神)を加え、河野長廣は谿壑の峡天を描き、中川令子の太子像や、岩﨑信也の氷心、吉田絵美の取り合せ縞の表出などにも心を惹かれた。また会を代表する詩情派風景画の優品は嘉見敏明、馬越まゆみ、大野定俊、天笠勉、田多靖三、山下拓、大重都、吉田富美夫、飯室眞、浅野美杉、入木健、中山以佐夫、岸甫、真鍋靖など、それぞれの時節の純粋抒情を称揚するかのような、これらの作品には是非とも注目したいところである。引き続き〈2室〉では、粟嶋美幸の向日性への思慕というべき世界があり、ヴァニタスによる福田守男の静物画や、太古の眼差しの長野雅彦、また石澤薫美の内省の踊り子像にも引き込まれるものがあった。〈3室〉の畠山文野はファンタジーの世界観で恐怖の異界を描き、村尾吉規の奇矯な馬の表現や、山上久子のkokoroの死生感にも驚嘆する。更に樹木表現ではカワイイの美意識でソテツの花を描く二神恵子、後藤稔や東山一義の冬木、老木の及川わか、田幡美佐男の夕景の木立と、更に岡﨑美代子の木とフジの共生などは、なかなか見応えがあった。次の〈4室〉は心的景観として、懐古景観の甘利佳代子と磯貝玉惠、または次室の齋藤紘史などのテクニックある画面にも魅力を感じたのである。他方ルミニズムの小林俊彦や中村元彦など、陽光の知覚も実に秀逸と言えよう。そして技巧的表現の雨宮正子も光るものがあった。

 この他5室以降では、人間探求派の大西英子、壺中之天を止観する本田哲也、小林嵩史の鳴禽図などにも興味をそそられる。陰翳のある都市景観では、岡田弘子、冨岡清子、飯田亮子、都築恵、坂倉千恵子の作品があり、晩望の景は寺井達哉、安川昌征らの作品が注目を集めた。加えて素朴派では北澤良和、平子映子、持田幸啓、近藤光、田中宏美、伊藤登などが目を引き、また高次元な内面的装飾性を花で表現した増田弘美、その図様からここに来てやはり花の表現を見直して、後藤直子、志田隆子、小久保昌子などによる、花の心象表現も改めて鑑賞する。この他人物では小山和哉、土屋公子、手嶋智美などが印象に残った。重ねて抽象の中田幸子、杉元隆子、ドローイングの松尾ひろし、鈴木健二郎、尾崎芹奈の作品も上げておきたい。初入選では、藤原麻椰、大谷悦子、松本七音、内山栄二、千葉真司、加藤祐輝、浅利陽子、浅田静恵などにも注目し、繰り返し第52回展の数々の音色を味わったのである。

 最後に〈小品公募部門〉では風景の優品が目を引いた。あおひかり、渡辺富雄、今井優、上鈴木正一、中でもナイーブアートの村山史秀、近影拡大構図の三浦郁、廃屋と秋気を表した髙田哲など、心に響いたことを報告して擱筆することとしたい。

 (敬称略)

受賞作品講評

■近代日本美術大賞 樋口奈穂《海の歌》。波の無い海上は、陸風と海風が入れ代わる朝凪を示している。ならば日が昇る一刻であり、乙女が着るレースのシフォンドレスからして、季節は盛夏であろう。その大海原を背景に彼女はヴィーナスの化身なのか、その頭上には海鳥が飛翔し、主人公を祝福しているかのようだ。更に小さな鳥の躍動と帆船の出航は、雄大な海と鮮やかな対比をなしている。先ずは本作の推敲と豊かな創意を評価したい。作者は以前、荒れ狂う海に翻弄され、やはり乙女を主役に《鳩の海》を描いた。今回はそれをまさにリフレーミングする真逆の世界なのである。これは生命を描いた心象における壮大な連作なのか、そうであるならば安楽や幸福など、理想を追い求めた一つのアレゴリーといえよう。
■内閣総理大臣賞 吉野富美夫《輝く朝》。この万象を覆い尽くす積雪は、そんなに深くはないが、凍雪には違いないであろう。雪月花は日本の典型的な美意識であるが、この雪には人の汗がしみ込んでいる。俳人飯田蛇笏は「田を截って大地真冬の鮮らしさ」と詠んだ。「截って」とは整えることであり、納める意味も持つ。この雪の下には先祖代々耕してきた農耕の土が眠っているのである。またここは郷関か。それを遠景の山から、祖霊や山神が見下ろしている。そんな気配までこの絵は表していると感じる。前作に見る、農家や余計な点景が影を潜め、大地はいよいよ満目蕭条として、懐古の情を誘っているのだ。漫然とパッシブに描写していては、この悠久な地霊と、人間生命の儚さは出て来ないのである。
■文部科学大臣賞 甘利佳代子。本作は《テルトル広場へ》の題名からして、モンマルトル界隈の散策から、画家の露店で有名なテルトル広場までの、その歴史をも含めた景観表現である。まずは作者の嘱目した実在の景色よりも、自らが得意とする色感を使って、例えばセザンヌの水彩のように、人物や樹木や建物やペイブメントまでをも、同質に描き出す。そこにある無彩色の空白までもが、彩色と調和するよう図るのである。ここで注目したいのは、作者の心眼とその拓本のような筆触である。これがルノアールやロートレックなど、最初にこの辺りを彷徨した画家から、ここに集う人々の心象や、俗耳に入るものまでをも写し取るかように、この場の自由な風土色を捉えたのである。それは実に秀逸であった。
■東京都知事賞 中山以佐夫《花桃の頃》。以前谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の話をしたが、作者もやはりこの本同様、光と影に惹かれる一人であろう。実は本作が審査会場に運ばれた折、照明の具合いで峡間と山家がとても暗く感じた。だがそれに反して、主題の桃の花が浮かび上がったのである。明度差の関係か、それは緋桃に感じるほどであり、実に幽婉なる雰囲気を醸し出した。多分作者もアトリエと展示会場の照明の差違に驚くだろう。しかし恐らく会場の光源は、大地の息吹きを示すこの前景の菜の花を、当然光り輝かせ、結果花桃はヴァルールを取り戻すのである。結局この絵は外光派である作者の、その研ぎ澄まされた感性と、風光る煦々たる春光で、このやや哀愁のある抒情性が発揮された秀作なのである。
■クリティック賞 本田哲也《攻城戦》。この絵はナラティブな仮想空間でもなく、勧誡画でもない。例えば仏教哲学の中心である業のような、世界的な人類の実相を客観的に描いているのである。本図は中央に階段が描かれ、互いに敵味方上下の戦士達によって、重力を無視した殺し合いが表現されている。淡々と繰り広げられる虚無的な図像は、戦闘状態にある人間を、冷やかに描写するだけなのだ。しかもこれは救いようのない現実であり、観者である私達の無責任な態度を含め、単なる模様のような同時代性を表出する。画面の無重力から連想して、「万有引力とは ひき合う孤独の力である」(『二十億光年の孤独』)という谷川俊太郎の詩を思い出した。孤独は愛を生む因子となりうるか…その真逆の本作は機知に富む。
■クリティック賞 岩﨑信也《氷瀑》。新興俳句の水原秋桜子は「滝落ちて群青世界とどろけり」と表現するほど、滝は自然界の神秘である。その滝は今や瀑声もなく、極寒の中で氷に閉じ込められている。不思議な静けさの中その妙趣を感じて、作者は氷結した水の流れをつぶさに凝視したのであろう。その結果、画面全体をパンフォーカス(被写体の近景から遠景までピントが合っている状態)で表現している。だから不自然なくらい画像は硬い。しかしこれは冬ざれの「寒」を追求した結果である。清少納言は「冬はつとめて雪の降りたるはいふべきにもあらず」(『枕草子』)と雪を賞賛したが、この凛烈たる氷瀑もまた一興なのだ。しかもこれは早朝だろう。滝も天日を恋い慕って、映発するのである。画境は尽きない。

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